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2014-09-24

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My Dear Jazz Life
ロードソング.jpg19才で上京し、最初に住み始めたのは新高円寺にある四畳半の下宿(アパートではありません)だった。ガスコンロ1つの小さな流し台。洗濯機など置く場所もなく、大家さんの2階にある2部屋の内の一つが私の生活空間だった。部屋を出たところに小さな共同の洗い場があり、そこで手洗いで洗濯をやっていた。トイレは1階にあり家主さんと共同、風呂などむろんなかった。高知の実家でわがまま放題に育った私にはいくら自分に「ガンバレ」と言い聞かせてもやっぱり寂しい1人生活のはじまりだった。そんな心の隙間を埋めてくれたのは夜FM放送から流れてきたJAZZだった。
Favorite Jazz
バンピン.jpgJAZZを聞き始めるきっかけになったのはCTIレーベルから発売されたイージー・リスニング・ジャズ・シリーズのウエス・モンゴメリーの作品だった。これをきっかけにJAZZへの興味はどんどん広く、ちょっとだけ深くなっていった。そのころ六本木にあったJAZZ CLUB「MISTY」や初代ブルーノート東京、現在は南青山にあるがまだ新宿にあった頃のBODY AND SOUL、六本木の「ピットイン」などでライブの楽しさを肌で感じた。いつしかJAZZが私の生活にかかせない癒しの音楽になっていた。私にはレコード大賞をとるような通好みのJAZZよりも「楽しい、聞きやすい」JAZZが好きだ。もちろん、通好みと聞きやすさが一致するアルバムもたくさんある。ここにあるのは大げさな表現ですが、私の青春時代を彩ってくれたアルバムたちです。
Design
ヘビーサウンズ.jpg1970年代当時、ジャズ・レコードを購入するのは新宿西口の小田急ハルク裏にあった「オザワレコード」と銀座と渋谷にあったYAMAHAがほとんどだった。オザワには貴重なアルバムなどもたくさんあった、週末に通ってはあれこれと買い求めていた。ヤマハ・レコードでは年に何回か大規模な輸入盤のバーゲンがあり何枚もまとめて購入していた。お気に入りのミュージシャンが参加しているセッションのアルバムなどは聴いたことがなくても買っていたものだ。デザインが気に入って「これはいい音がしそうだ」と思い込みで購入したものも結構あった。そんな中で、ジャケットのデザインも中身もよかったアルバムが現在まで手元に残っている。
グラフィック・デザインを仕事にする私にとってジャズ・レコードのアルバム・デザインはあこがれだった。ブルーノート・レコードやリバー・サイド、プレスティッジ、コンテンポラリーなどのデザインはすばらしいものが多かった。半世紀を過ぎた今見ても、色あせる事はない。
「Sign Please!」
1988年にブルーノート東京がオープンすると、それまで雲の上の存在だったジャズ・メンたちが次々に来日するようになり、そのころ少し冷めかかっていた私のジャズ熱が再び燃え上がった。大好きなジャズメンの大好きなアルバムにサインしてもらいたい!!こうして私のライブ・ハウス行脚が始まった。
若狭・小浜
01.jpg仕事で訪れた若狭・小浜。宿泊したクライアントの別荘で”PUU”というネコに出逢った。静かな港町小浜、若狭湾でとれる美味しい魚、132もある寺院は人口比で日本一、福井県の文化財の三分の一が集中している歴史のある町だ。
TWINS
twinweb 030.tif子供が苦手だったわたしに授かったのはFUTAGOだった。ちょっとプライベートな写真集。
PLAY BOY
ライオン/創刊.jpg
1966年に創刊された「週刊プレイボーイ」のカバーは女性の体の一部分をコラージュした斬新なデザインだった。古本屋を何軒もまわっては集めていた。あの頃は「平凡パンチ」やプレイボーイのグラビヤが大人の世界への入り口だった。現在の週刊誌からするとなんとソフトでかわいい世界だったんだろう。巻頭のヌード写真をちょっとイケナイ世界を見るようにコソコソと親に隠れてみていたものだ。外車のグラビヤに憧れ、柴田錬三郎と横尾忠則がコラボした連載小説に心ときめいていたあの頃がこの表紙を見ていると蘇る。